貞山・北上・東名運河事典
ていざん・きたかみ・とうな
9-(2)-① 幕末の鬼才 三浦乾也
※タイトルは、『幕末の鬼才 三浦乾也』(益井邦夫著 里文出版発行(平成4年5月25日))から
著者のご厚意を得て掲載しています
- 洋式軍艦『開成丸』建造を指揮 -
安政2年(1855年)仙台藩公伊達慶邦から造艦の命を受けた仙台府学総督の大槻文禮(大槻習斎1811~1865。文禮は字(あざな))は、良工を探すため小野寺鳳谷(1810~1866 字(あざな)は君鳴)を江戸にいた姫路藩の儒学者菅野潔のもとに派遣した。このとき三浦乾也をおいて他に無いとの教示を受けた。小野寺は三浦乾也に会い、大槻文禮に推薦。これにより、仙台藩に造艦惣棟梁として招かれることになった。
安政3年、三浦乾也は松島湾の寒風沢(現在の塩竈市浦戸寒風沢)で建造に着手。翌4年には見事に竣功させている。寒風沢港のすぐ近くの造船所跡には、三浦乾也の顕彰と船の完成を記念した造艦碑が建てられている。
なお、三浦乾也は、土佐藩にも推挙されていたが実現しなかった。また水戸徳川家からの反射炉築造技術者(足軽身分)としての招へいには固辞している。ちなみに、水戸藩が幕府の命で建造した船は進水と同時に転覆している。
三浦乾也 みうらけんや (1820~1889)
江戸の陶工。乾山風の焼物を作り、破笠(はりつ)風の細工が巧みであった。
浦賀に入港したペリー率いる黒船を見て造艦の必要性を幕府はじめ諸藩に説く。
安政元年(1854年 33歳)には幕府から命じられ、長崎に行き、オランダ人に洋船製造技術を学んだ。(長崎には、勝安房とともに行ったと『父乾也を語る』(娘よね)にあるが、それは記憶ちがいのようであり、事実ではない。)
1856年(35歳)、仙台藩に造艦棟梁として招かれ、寒風沢において洋式軍艦『開成丸』の建造にあたった。(開成丸を我が国初の洋式軍艦とする説があるが、これは誤り。)
船の竣工の労にこたえて、後に仙台藩から御作事奉行格にとりたてられている。
乾也に陶工を学んでいた庄司義忠に乾の一字を与え、乾馬の号を贈り、「乾山楽焼秘書」を模写させた。これにより乾山流陶法が堤焼に根付くことになった。
時が明治に移ってからは東京に在し、陶工としてその名を馳せた。
▲三浦乾也翁(明治初年)写真(印刷)
提供:仙台市博物館
<三浦乾也の焼物>
●所蔵および画像提供:仙台市博物館
▲春駒御福人形
▲鶴文黒楽茶碗
▲菊文茶碗(五代目尾上菊五郎好)
▲絵替小玉
●所蔵:芹沢長介記念東北陶磁文化館(宮城県加美郡加美町)
(補記)
小野寺鳳谷は藩校養賢堂指南役であるとともに造艦の監督に当たった。品井沼干拓に生涯をかけた鎌田玄光(鎌田三之助の祖父)が師事を仰いだ人でもある。
※小野寺鳳谷、鎌田玄光、鎌田三之助は『不撓不屈-品井沼干拓300年』をご覧ください。 ⇒ こちら
<参考文献>
鹿島台町史 平成6.3.31鹿島台町
塩竈市史 1955 塩竈市
幕末の鬼才 三浦乾也』 益井邦夫 平成4.5.25里文出版
三浦乾也(「父乾也を語る」ほか) 1991.3 宮城県図書館