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​9-(2)-②-b 菅野潔(白華)すがのはつか 

 幕末~明治維新という激動の時代を駆け抜けた儒学者。文政3年(1820)2月6日~明治3年(1870)3月8日。享年51歳。諱いみなは潔みさお、字あざなは聖与、号は白華、通称は狷けん介すけ。他に有所不為軒、乾斎、天山堂主人とも称した。姫路藩の学問所『申義堂』学頭を務めた菅野真斎(諱は弘祖、字は子緩、通称は武助)の三男として、高砂(現在の兵庫県高砂市)で生まれた。

 白華は、8歳という幼少にして“「昭明文選」(書経)の難字をすべて暗記するほどの天才”で、長じては白華の学者としての大成を願う藩主によって江戸昌平黌(こう)に入学、その博識は群を抜き、後に昌平黌の舎長に抜擢されている。なお、当時昌平黌には仙台藩の齋藤馨(竹堂)がいて、白華と主席を争っている。

 ロシア、イギリス、アメリカなどの船が相次いで来航するようになり、国内では尊王攘夷思想が高まりを見せた。安政年間には全国各地で大地震が勃発、人心が混乱を極める中で、勤王、佐幕の各派が蜂起するなど混迷の度を増していった。こうした中で白華は、国を憂い、尊王攘夷を主張していくようになった。

 そして海防から国土安全を図ることを目指し、安政3年(1856)4月から安政4年9月には、東奥羽を経て蝦夷地探査を行っている。単身で決行したこの蝦夷地探査は、荊や棘などが立ちふさがる深山幽谷を分け入っていくものであり、筆舌に尽くしがたい難儀を伴った。このときの成果を、『北游乗』(四巻)に著している。

 なお仙台では、安政3年(1856)に芦文十郎、翌4年江戸へ戻る途中に三浦乾也と会っている。また、北遊の帰途に寒風沢島で下船し、白華が推薦した造船棟梁(後に作事奉行)三浦乾也の指揮のもとで仙台藩が進めている洋式軍艦『開成丸』の建造(着工:安政3年8月26日、進水式:安政4年7月14日、完成:同年11月)を祝したと『造艦碑』には記されている。この碑は、白華撰文によるもので、その建立は安政4年季歳在丁巳秋八月となっている。ちなみに篆額(てんがく)は、涌谷伊達家十二代当主伊達安芸邦隆(1835~1867)による。

  (注1)白華の仙台滞在、開成丸建造の視察、記念碑撰文に至る詳細は、別途その確認が必要と思われる。

  (注2)伊達騒動(寛文事件)で命を落とした伊達安芸(伊達宗重 1615~1671)は、涌谷伊達家第二代当主。

 このほか仙台滞在中には、“藩候の講座で経書(けいしょ)を講じ”たりもしたので、“藩庁の優遇・旧知の歓待を受け、仙台を去る時には、多数の人士が十数里も見送ってくれたという。

  (注3)前ページを含め“”部分は、網井捨次著『姫路藩校高砂「申義堂」と勤王の学者菅野白華』から原文引用。 

 その後白華は、水戸藩家中との関わりから同藩の反幕活動に加担しているとみなされ、安政5年(1858)10月に「安政の大獄」に連座して捕縛され、以後5年間投獄された。このとき白華は、生歯すべてを抜かれ、拷問を受けている。

 文久3年(1863)正月4日に出獄後は、姫路藩校『好古堂』の副督学に迎えられ、慶応元年(1865)に督学になっている。そして慶応4年(1868)6月、兵庫県開設の郷学校『明親館』(白華が命名)の教頭として迎え入れられている。明治2年(1869)12月にここを辞したが、翌3年2月には白華を外務省に召そうとする明治政府の強い働きかけに抗しきれず、病を押して高砂を出立。兵庫まで至ったものの病が重篤化し、3月8日にそこで没した。 

<参考文献>

 

高砂市史  第二巻 通史編 近世

『姫路藩校高砂「申義堂」と勤王の学者菅野白華』 網井捨次著

高砂市文化財研究シリーズ『勤王の学者「菅野白華』編集:高砂市文化財審議委員会 発行:高砂市教育センター

塩竈市史

『幕末の鬼才 三浦乾也』 益井邦夫著     発行:里文出版

『評伝 小野寺鳳谷』(上・中・下) 黒川典雄著  仙臺郷土研究復刊第26第1号、同第2号、復刊第27第1号

『開成丸航海日誌』 小野寺鳳谷著 

『蝦夷から北海道への黎明期に開鑿された蝦夷地山道物語(中)』 三浦宏著