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6-(8) 造艦碑

碑の篆(てん)額は仙台藩涌谷城主の伊達安芸邦隆、撰文と書は姫路藩の儒者 菅野潔(すがのみさお 号は白華(はっか))によるものである。碑文の内容は、概ね次のようなものとなっている。

 

 

*** 碑文の概要 ***


宇宙はおのずから形勢を変える。船を造ることは急務である。しかも西洋式でなければならないが、その技術を習得した人は少なく、一般には難解であった。仙台府学総督の大槻文禮は、これをなげき奮起し、小さな船を数隻造ったが塩釜浦の人々はこれを信用しなかった。

 

安政乙卯の年(安政2年 1855年)藩公は大型船の建造を思い立ち、その大役を大槻文禮に命じた。文禮は、命を受けたものの当時は仙台藩内に良工がいなかったので、小野寺という者を江戸や伊豆・相模方面に派遣し探させた。その時江戸は大地震により大変な混乱の中にあった。小野寺君は、私の所に来て造艦のことを話した。そこで私は、今江戸の人材の中でそれができる良工は、三浦乾也その人であると言った。

小野寺はさっそく三浦乾也に会い、藩公に推薦した。藩公は大いに喜び、特に優遇して召し抱え、建造を任せることになった。安政3年8月、乾也は門弟たちとともに寒風沢島で造艦を開始した。千板萬釘に究極の精緻をこめて建造に励んでいたが、藩内には批判の声も多くあった。しかし、藩公は艦の出来上がることに期待を寄せ、皆を激励し、これに涙するものも多くいた。文禮たちが藩公に従い支えたことから艦は完成した。

乾也は言った。他に先んじて新しい仕事をすると、遠くまでその事が伝わっていくものだ。東北の諸侯にとってもこの造艦が新たな取り組みの始まりとなろう。これからは、建造の技術や航海に熟練した良工が多く出てくるだろう。私の造ったものなどは人々の嘲笑にあうかも知れない、と。

しかし、国では乾也に大きな期待を寄せていた。私の聞き及ぶかぎり、その識見の卓越していたことでは乾也に及ぶものはいない。いばらやあらたまを抱いて、巷の陋屋に潜んでいた龍が、時を得て明主に見出されたことは、名君伯楽にこいねがわれた駿馬というべきか。英明武断の藩公と腹心の良士の知遇を得た駿馬それは乾也である。その出会いは偶然であったかもしれないが、その功は永遠であり、藩の気運はこれによって一新した。私は北遊の帰途にこの島に下船してこのことを喜んだ。そして、その顛末を記して後世に残すことにした。これもまた乾也の志と思う。

【造艦碑文】
   造艦碑

   寒風澤嶼造艦碑 涌谷伊達安藝平邦隆篆額 江戸姫邸儒員菅野潔撰文并書
   自宇宙形勢之變也造艦寔爲急務而艦期干洋製矣特憾其傳習之永久而衆惑之難解
   焉耳仙臺府學捴督大槻文禮慨然奮力干此嘗造小艦数隻干鹽竈浦衆未之信安政乙
   卯之歳  藩公將大與造艦之役特旨命文禮督之文禮受命區畫時無良工遂建白遣
   小野寺君鳴徃江都及豆相間博詢歴觀以求其製會都下大震上下騒擾事始阻格一日
   君鳴投予家談及製艦事予曰目今都下人材亦富獨可稱爲苦心良工者三浦乾也其人
   也君鳴喜一見奇之薦之千       藩公大悦特召優遇乃延之本州委任蕫事丙辰八月始
   開廠干寒風澤嶼乾也其徒鳩工服役登登憑憑口授手畫千板萬釘究極精緻騎歳而
   艦成儼然弗列戞多艦也闔藩咸喜初艦之未成群議紛騰多沮之者  公聴察無聽文
   禮及一二有司又従而翊賛之艦既成喧傅遠邇閭婦里童莫不稱其能也乾也曰吾聞先
   鳴者其音遠東北諸侯之造艦以此擧爲嚆矢而吾遭遇干斯固幸矣雖然他日傳習愈精
   航海愈熟良工接踵而出安知今日之隋珠不爲他日之遼豕乎則吾之獲譽干今日者非
   幸而取嘲干後人斯爲至幸也吾竊爲國家望焉予聞之曰乾也不但其工之精也其識
   亦卓矣先是乾也抱荊璞干陋巷屠龍不售毫無慍色一旦得獻之明主而不自侈其勞豈
   非奇男子乎抑世無伯樂冀駿死攊苟非得 公之英明武斷與有司者之蜜勿臣鄰則
   乾也無所展其驥足而君鳴亦不得與而有力也於戯夫事固有出干偶然而功及久遠者
   焉若今日之事則豈非天之待斯藩以一新氣運者乎耶予北游歸途過嶼及下艦之期心
   竊喜而賀之遂記其顚末以傳干後蓋亦乾也之志也
   安政四年季歳在丁巳秋八月     江戸三浦乾也門生建石
※参考:『塩竃市史Ⅳ』、井上元一著『いしぶみ紀行 塩竃編』
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