貞山・北上・東名運河事典
ていざん・きたかみ・とうな
9-(1)-⑤ 北上川・江合川・迫川の流路変遷
貞山運河(木曳堀こびきぼり)の開削にあたった川村孫兵衛重吉は、北上川(現在でいう旧北上川)の改修にも大きな力を発揮している。
北上運河は、鳴瀬川河口に築かれた国際貿易港「野蒜港」と舟運の一大動脈となっていたこの北上川とを結ぶ運河として開削された。
北上川とそれに注ぐ主要河川の流路変遷を概括的にまとめたので、紹介します。
※PDF版は ⇒ こちら にあります。
1 慶長9年(1605年)までの流路
北上川の流路は通常は定まっていたであろうが、これら河川の流域は広大な遊水地帯となっていた。このため、大雨になるといくつもの流路ができ、大洪水が発生し、流域は氾濫を繰り返していた。
流路を固定し、遊水の滞留流域を減らすことが、この地の開発には不可欠であった。
2 慶長10年(1606年)からの流路
<白石(伊達)宗直による改修>
この治水改修に最初に着手したのは登米寺池館主 白石(伊達)宗直である。白石宗直は、慶長9年(1604年)12月、胆沢郡水沢館から登米の寺池館に所替えとなっていた。
当時、北上川は浅水地区(現在の登米市中田)から南西に分流し迫川に合流していた。宗直は、この分流域の袋中地区の氾濫を防ぎ、野谷地を開墾し穀倉地にするため、分流の流路を閉塞し東の流路に一本化を図った。このため、大泉村(現登米市中田上沼)小名倉山から水越村(浅水)長谷山に至る北上川右岸に3657間(6.65km)の堤防を築いた。あわせて、浅水村曲袋地区で北上川の川底を掘り下げ流路を整えた。慶長13年工事了。
新堤防は、白石(伊達)相模守宗直の名にちなみ「相模土手」と呼ばれるようになった。
(この改修の土木技術者は不明。川村孫兵衛説もあるが定かではない。)
3 元和2年(1617年)~寛永3年(1627年)の流路
<川村孫兵衛重吉による改修>
一説に、宗直による北上川改修で登米あたりからの下流が急流となり、舟航に堪えなくなったので、元和年代(1615~24年)に柳津村字小麻(現登米市津山柳津)に「締切堤防」を築き、北上川本流を寺崎・神取方面(現在の旧北上川)に変えたとするものがある(「北上川古今沿革調」宮城県土木課 明治20年頃)。
他説には、①川村孫兵衛によって柳津・飯野川間の流路が締め切られたとするもの(「宮城縣史」第二巻1966年)、②すでに自然荒廃し水勢減退していたので本流ではなくなっていたとするもの(石巻市史)第二巻1956年)などがある。
しかし、その後の『石巻の歴史』(石巻市発行)では、次のような解釈を採っている。
●川村孫兵衛以前の北上川水系の舟運を示す「かさいおおさきとめの日記(慶長5年)」によれば、柳津~神取間に4船着場が記されているが、柳津~飯野川間には見られないこと、この流路は川村孫兵衛による改修前から開かれていたことから、すでに本流は柳津~神取ルートになっていたと考えるべきである。
●同様に、鹿又~石巻の流路についてもすでに開かれていたのであり、それを川村孫兵衛が改修したと捉えるべきである。
4 明治11年(1879年)以後の流路
◆北上運河の開削(明治11~14年 1878~1881)
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野蒜築港に合わせて開削
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延 長 13.9km
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事業主体 国(内務省)
◆東名運河の開削(明治15~18年 1882~1885)
(注)明治16年~17年とする捉え方あり。
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野蒜築港に合わせて開削
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延長 3.6km
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事業主体 国(内務省)
◆北上川の開削(明治44~昭和6年 1911~1931)
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事業主体国(内務省)
◆吉田川の河道開削(背割堤)(大正14~昭和16年1925~1941)
◆新迫川の開削(昭和7~15年 1932~1940)
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事業主体 宮城県
◆新江合川の開削(昭和8~32年 1933~1957)
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事業主体 国
(注) 大正5年(1916年)に県営事業として着手。
合流案に修正を加え、大正10年から国(内務省)直轄工事として
実施。直轄工事は鳴瀬側と吉田川 の分離、鳴瀬川流路の是正・築
堤等の工事も進められた。
(参考)
迫町史 宮城県迫町
石巻の歴史 宮城県石巻市
宮城の土木史 宮城県・宮城県建設技術協会
宮城県土地改良史 宮城県(平成6年3月)
北上川・鳴瀬川概要と歴史 国土交通省東北地方整備局北上川下流河川事務所
(ホームページ)
緊急対策特定区間-鳴瀬川中流部改修事業
国土交通省東北地方整備局北上川下流河川事務所
(パンフレット)
北上川物語 三陸河北新報社(2000年12月25日)