COPYRIGHT © waterways-japan.net  ALL RIGHTS RESERVED.

11-(2)-③ 御舟入堀(蒲生・七北田川河口~仙台港~多賀城大代~塩釜湾)
蒲生・七北田川河口からの北側は、仙台港の整備に伴い埋め立てられて公園などになった。かろうじて水路あとがその名残をとどめている。その詳細については、『貞山運河の埋立て』をご覧ください。
海岸側には蒲生干潟が広がり、渡り鳥の休憩地ともなっている。
ここの日和山は、大阪の天保山についで国内2番目に低い山として親しまれてきた。
 ※東日本大震災によってさらに標高が減少したので、現在は一番低い山と言える。
        (登山口の案内標柱や数段上がれば山頂という登山道!?も整備されている。)
 ※公園と海岸との間には大きな養殖場(ウナギ)などがあったが、大震災の津波被災により現在は無い。
1.北閘門のあったところ(現在は水門) 2008.01.19撮影
.排水機場と水路     2008.01.19撮影
.堀の埋立によって整備された公園 2008.01.19撮影
.蒲生海岸の松林     2008.01.19撮影
9.日和山   2007.05.03撮影
2.元北閘門前の船溜まり  208.01.19撮影
.排水機場   2008.01.19撮影
.堀の埋立によって整備された公園(北側)  2008.01.19撮影
.蒲生海岸の松林前に設置された解説板    2008.01.19撮影
10.日和山山頂の松    2008.01.19撮影  ※右下の赤い鳥居は川口神社
11.日和山山頂直下の川口神社   2008.01.19撮影
掲げられている川口神社由緒には、概ね次のように記されている。
祭神は大物主神。神社建立は人皇第98代長慶天皇の南北朝時代(西紀1374年)。祭神大物主神は海を照らして現れ光と導きを与える海上守護神であり、又人びとに幸運を添える福徳の神とされ江戸時代から庶民の人気を集めて来た。以来海上安全大漁満足御守護の神として広く全国的に舟乗り人(びと)の信仰が厚く、関係系列神社は各地に亘り其の数700社に及んでいる。
川口神社は此の地に建立以来時代の推移に伴ない再度に亘り鎮座地を移転して来たが、昭和期に至り現在地を最良の地として今日に及び氏神高砂神社とならび立つ郷土信仰に欠かす事が出来ない蒲生近郷一円の守神として、七星霜実に数百年に及ぶ長い歴史と伝統を保ち続けて来た。
本社は香川県琴平町の象頭山(321m)に鎮まる金刀比羅宮(通称こんぴら様)である。
        平成10年7月20日 宮司 小野丁治 撰
 
なお仙台市史によれば、「蒲生下河原に鎮座し、大物主神を祭神としていた無格社で近年廃社となる。讃岐国金刀比 羅宮の分霊を勧請したもので、海上安全の守護神として漁民の信仰をあつめていた。」とある。
12.川口神社脇の記念碑 2008.01.19撮影
13.干潟の鳥(ダイサギ)たち   2008.01.19撮影
14.干潟の先を仙台港から出港した船が行く   2008.01.19撮影
14.蒲生干潟   2008.01.19撮影
【仙台港から北部の水路等】
15.御舟入堀(砂押川):左右に宮城県仙塩浄化センター 前方は仙台港 2007.08.11撮影
16.宮城県仙塩浄化センター   2007.08.11撮影
17.御舟入堀(新旧砂押川分岐)   2007.08.11撮影
19.大代緩衝緑地(グラウンド)   2007.08.11撮影
21.臨済宗妙心寺派 西園寺大代墓地 2007.08.11撮影
18.宮城県仙塩浄化センター(宮城県公式サイトから転載)
20.大代緩衝緑地内の園路   2007.08.11撮影
22.西園寺大代墓地沿革碑  2007.08.11撮影
沿革碑には概ね次のように刻まれている。
~多賀城市大代区に古くから居住していた各家の殆どが臨済宗妙心寺派西園寺の檀徒であり、墓地は笠神上ノ台(現在多賀城公園)にあった西園寺と大代雷神及び高原の3か所に所在していた。各墓地は離れていたことから永年の慣習としてその管理は、西園寺住職から地元檀徒総代に委任され、独自の運営を行ってきた。昭和17年当時、多賀城村に海軍工廠が設置されることになり用地の強制買収が行われ、菩提寺西園寺も一山の境内墓地建物を移転しなければならなくなった。昭和18年、牛生地区の現境に移転したが、それに併せて境内にあった大代区関係の墳墓と雷神墓地の統合を図り、高原墓地に移された。昭和36年から38年にかけて菩提寺西園寺は戦時中移築した本堂を中心にする改修工事を行ったが、その整備事業の一環として高原墓地に寺外仏堂、能化堂を新築、菩提寺から本尊として延命地蔵大菩薩の仏像を勧請奉安し、つつがなく地区檀信徒の法要が行えるようになった。しかし昭和47年、宮城県による仙塩流域下水道終末処理施設が高原に整備されることになり、多賀城市もこれに同調し、地域住民に協力を求めてきた。30年来辛苦を重ね営々整備を行ってきた墓地を手放すのは反対だったが、やむを得ずこれを了承し、県に協力することになった。昭和50年2月、墓地使用者全員による大会を開いて論議し、地区民の要望を県が受け入れること条件に移転やむなしの結論にいたった。県は、全面的にこの要望に応ずることになり、昭和52年3月16日新墓地経営を許可して墓地移転問題は円満な解決をみるにいたった。~
23.大代橋上流部 2007.08.11撮影
24.レリーフのある護土留岸擁壁 2007.08.11撮影

●場所:多賀城市大代(中峯橋わき)

●経緯:都市計画道路 八幡築港線(県道仙台塩釜 

      線)の整備に伴い、支障となった中峯橋の

              架替工事において、橋台部の土留擁壁に設

              置(平成5年ころ)

25.係留プレジャーボート群  2007.08.11撮影
26.塩釜湾に向かう船   2007.08.11撮影
27.塩釜湾口    2007.08.11撮影
28.塩釜湾口の高台にある大木囲貝塚遺跡 2007.08.11撮影
                              面積が19万平方m(東京ドーム約4個分の広さ)の貝塚・集落跡。昭和43年(西暦1968年)に国指定史跡に指定。現在は公園として開放されている。
29.大木囲遺跡下の東宮浜の先を航行する塩釜・松島海岸を結ぶ観光船