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7-(1) 石井閘門
※東日本大震災からの復旧・復興ー重要文化財「石井閘門」保全対策については ⇒ こちらを参照
​                 (国土交通省東北地方整備局北上川下流河川事務所公式サイト)
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▲石井閘門(北上運河側)
▲石井閘門上部
▲石井閘門北側(北上川側)
▲北上川
■石井閘門とは

石井閘門は、北上川と野蒜築港(現:東松島市野蒜)とを結ぶ北上運河の入り口に設けられた日本最古の単純合掌扉を持つレンガ・石造り閘門

です。
 

 ※野蒜築港・・・明治時代の始めに進められた我が国初の西洋式築港。


石井閘門は明治11年10月8日に起工式が行われ、内務省土木局長・石井省一郎(いしいしょういちろう)、オランダ人技術者ファン・ドールン(C.J.van Doorn)、宮城県令・松平正直(まつだいらまさなお)が来賓として出席。その席上松平県令は土木局長の名前にちなみ、閘門名を「石井閘門(いしいこうもん)」と名付けました。

                                                      

閘門は、梅雨の長雨や洪水による水没などの被害を受け、難工事の末に、着工から2年10ヶ月後の明治13年7月に完成しました。特徴でもある赤レンガは約50万個、地元の稲井石は2万4千㎥使用されたと記録されています。

野蒜港は、明治17年(1884年)年の台風により被災。そして、復旧や第二期工事に膨大な経費を要することとなったために野蒜築港計画は中止となりました。その後、鉄道や道路の整備の進展に伴い、物資輸送も水路から陸路へと変化していきましたが、「北上運河」と「石井閘門」は使用され続けてきました。


石井閘門は、貴重な近代土木遺産として平成14年(2002年)年5月23日に国重要文化財に指定されました。

             工   期:明治11年(1878年)10月~明治13年(1880年)年7月
             所    在   地:宮城県石巻市水押3丁目6
                     旧北上川右岸8.1km付近(北北上運河始点)
             全 体 延 長:50.35m  
             躯 体 構 造: 川表門柱部(煉瓦造)       幅6.10m 高さ6.30m
                    閘室部(石積)      幅7.15m 高さ4.65m(平均)
                    川裏門柱部(煉瓦造)      幅6.10m 高さ4.70m
             ゲート構造:木製マイターゲート敷き(川表・川裏とも)
                      昭和41年(1966年) 鋼製ゲートに全面更新

             管    理   者:国土交通省東北地方整備局北上川下流工事事務所

■石井閘門は日本最古のレンガ造り西洋式閘門 ~現在可動できる閘門の中でも日本最古~

記録によれば京都・高瀬川の高瀬川閘門が一番古く、1614年(慶長19年)の「角落とし式」(角材で堰き止め、船を引き上げる方式)の石造り閘門とされています。それに比べ石井閘門は1880年と新しいのですが、それまでの閘門が幅3m以下の角落とし式の木造あるいは石造りだったのに対し、石井閘門はそれまでの倍の幅で、しかもレンガ・石造りの単純・合掌扉で日本初の本格的西洋式閘門であることは特筆すべきことです。また、記録に残っている16世紀以降の閘門では木造、石造りの閘門は残存していても可動せず、その後のレンガ・石造りの閘門でも実際に使用されているのは石井閘門を含めて全国に4ヶ所しかありません。ちなみにレンガ・石造りの後の主流は鉄筋コンクリート造で、その中の戦前の閘門建設の中でも8ヶ所のうち、数ヶ所しか現在可動していません。

 

■石井閘門はなぜ必要になったか

江戸時代、伊達政宗の命を受けて川村孫兵衛重吉が北上川開削しました。その後年月を経る中で北上川河口部は土砂堆積で水深が浅くなり、大きな船の航行に影響がでてくるようになりました。

オランダ人技師ファン・ドールン(C.J.van Doorn)は大久保利通の命令によって明治9年9月に現地調査を行い、鳴瀬川河口の野蒜を東北開発の拠点となる築港の適地として報告しました。この報告に基づき、明治政府直轄の事業として、野蒜に我が国初の西洋式築港を進める計画が決定されました。

野蒜には福島から阿武隈川・貞山運河経由で、山形から陸路・貞山運河経由で、岩手から北上川・北上運河を経て物資を集約させ一大経済圏を形成していこうという構想でした。奇しくも北上川と同じように伊達政宗が川村孫兵衛に開削させていた木曳堀(阿武隈川~名取川間)と御舟入堀(七北田川~松島湾間)、さらに明治になって完成していた新堀(名取川~七北田川間)があったので、残る松島湾~鳴瀬川間の東名運河と鳴瀬川~北上川間の北上運河を開削し、これらを結ぶことによって野蒜新港への集約性を高めるという壮大な構想が作られたのです。

当時の交通はまだ水運が主流であったため、北上川から野蒜へは水深の浅い石巻の河口港や天候に大きく左右される外洋を通らず安全に航行できる内陸型の水路が必要とされました。そこで北上運河が計画され、北上川との分岐点に船舶通過用水位調節施設として石井閘門が誕生したわけです。

 

■石井閘門はどうやって作られたのか

北上運河や石井閘門の工事には、地元の他に岩手、山形、福島から集まった人夫約2000人が働きました。掘工事には土木局が発明した水揚げ機械や我が国2例目の使用となる蒸気式浚渫(しゅんせつ)機2台と人力浚渫機8台が活躍したようですが大半はモッコと鍬による人力掘削でした。人夫の日当は16~25銭で坪当たりの開削費用は50銭という記録も残っています。北上運河と石井閘門あわせての築造費用は16万6,522円と推定されます。これは当時と貨幣価値が違い単純に比較はできませんが今のお金に換算すると約9億3,700万円から12億5,000万円位と推測されます。



(参考)
・閘門と水門、堰との違い

閘門・・・水位差のある2つの川や運河などで船を通すために設ける水位調節機能を持つ施設で、二つの水門の間に船を入れる閘室を持つもの。

     船を閘室内に入れた後、水門を閉じ、閘室内の水位を昇降させて出て行く側の水位と同じくしてから船を進める。

 

水門・・・水路上の洪水防御、取水・排水用など、必要に応じて水の流出入を調節するために開閉する門扉などの構造物。

 

堰 ・・・取水や水位・流量の調節のために、水路中または流出口に築造した構造物。「塞(せ)く(ふさぐ)」という語を語源としている。

(出典)
・『貞山・北上運河沿革考』(遠藤剛人著)
・『北上・東名運河事典』(編集・発行 みやぎ北上川の会)
・『産業技術遺産探訪 2003.12.14』
    http://www.gijyutu.com/ooki/tanken/tanken2003/nobiru/nobiru.htm
    http://www.gijyutu.com/ooki/tanken/tanken2003/nobiru/ishiikoumon.htm
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