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​12-(8)-① 早川智寛 はやかわともひろ

九州小倉藩士早川慶兵衛の長男として生まれた。長崎へ遊学、数学や外国語を学び、1873年(明治6年)に土木寮の官吏となった。
1878年(明治11年)2月、野蒜築港内務省土木局出張所(宮城県牡鹿郡蛇田村高屋敷)工事主任として赴任。
北上運河の開削、石井閘門の建設に携わるが11月には内務省土木局を辞し、三重県属となる。
1880年(明治13年)宮城県属となり土木課長に就任し、1881年(明治14年)頃の運河改修を行った。
早川の講話によれば、舟入堀、新堀、木曳堀が仙台藩祖伊達政宗の構想であることを偲び、各堀を総称して政宗の諡にちなみ「貞山堀」と初めて命名したという。
1886年(明治19年)愛媛県書記官。
1887年(明治20年)官吏の職を離れて、早川組を設立、東北地方や北海道で土木事業を行うなどして財を成した。
1891年(明治24年)仙台商工会議所の初代会頭に就任。在任中には仙台~山形間の鉄道建設を政府に請願するなど地域開発に尽力した。
1898年(明治31年)国立銀行から株式会社に転換した七十七銀行(仙台市)の監査役に就任。このときの同銀行の専務取締役は、後の第5代仙台市長となる和達孚嘉(わだちたかよし)だった。

早川は、1903年(明治36年)4月2日~1907年(明治40年)7月1日まで第4代仙台市長を務めた。
顕彰碑と墓所は、サクラで有名な松音寺(しょうおんじ)にある。
<曹洞宗 松音寺>
北山輪王寺、荒町昌傳庵、南鍛冶町泰心院とともに城下曹洞四大寺の一つとして、領内曹洞宗僧録司を拝命。山門は、仙台藩主忠宗公から拝領の旧若林城門(切妻造医薬門)    住所:仙台市若林区新寺4-6-28 
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