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12-(4) 司馬遼太郎が訪ねた貞山堀
司馬遼太郎氏は、昭和60年(1985年)2月25日午後2時過ぎの便(YS11型機)で大阪を立ち、午後4時過ぎに仙台空港に着いている。その後、阿武隈川を見るため空港からタクシーに乗って河口の荒浜に向かい、堀(運河)の残っていることを知る。このときのことを次のように紹介している。

私どものYS11は、まだ空港についていない。午後四時すぎ、いったん海へ出、ふたたび長い汀(てい)線(せん)をながめつつ、陸地に入り、空港に着陸した。

 まわりは、広大な田園である。沃土というほかない。

 空港で、地図をひろげた。私どもが仙台市から十数キロ南にいることを知った。この平野の最南端は、阿武(あぶ)隈(くま)川がうるおしている。まず川を見たいと思った。

 「阿武隈川の河口の荒浜(地名)まで行ってください」

 と、タクシーにたのんだ。仙台市から南へ遠ざかることになるが、仙台市に入る前に、沃野の酸素をたっぷり血のなかに入れておきたかったのである。

 南下道路は、丈(たけ)ひくい幼な松の原を貫通している。左手は海だが、防潮堤がさえぎっていた。

 やがて阿武隈川に架る橋の上に出、車を降りた。橋は河口に近く、対岸に荒浜の集落が望見できた。荒浜は、江戸期、仙台米を江戸へ積みだす港として、北の石巻とともに栄えた港である。ただし、遠望するだけにとどめた。

 運河があることを知ったからである。

 ゆったりと水をたたえ、片側が防風林で飾られている。幅は、存外ひろい。

 「これは、もしかすると、貞山堀じゃないですか」

 運転手さんにきくと、そうだという。

 私はひと目、貞山堀をみたいとおもっていたが、おそらく開発などのために消滅しているのではないかとも思っていた。ともかくもこれはどの美しさでいまなお保たれていることに、この県への畏敬を持った。

政宗のころ、仙台米を水上輸送するために掘った運河なのである。当初は、内川とか、堀川、あるいは御船引(おふねひき)堀(ぼり)などといわれた。政宗以後も掘りつづけられ、これによって仙台平野の諸川はヨコ糸としてつながれ、南はこの荒浜付近から、北はとぎれつつも北上川河口の石巻付近まで至っている。そのあたりは明治につくられたもので、北上(きたかみ)運河という。全長四十七キロという、なんとも長大な〝遺跡〟なのである。

 「貞山」

 とは、政宗の死後の謐名(おくりな)である。貞山堀という呼称は江戸期からあったわけではなく、明治初年の土木家が、江戸期日本に似つかわしからぬこの大業に驚き、運河の名を貞山堀と名づけたときにはじまる。政宗がどういう人物であったかを知るには、まず貞山堀を見なければならない。

 ところが、貞山川についてのくわしい脱明や土木史的な資料についての古い記録がすくなく、せいぜい、近代以前の日本土木史についての唯一の大著である土木学会編の『明治以前 日本土木史』(昭和十一年刊)か、同書と同年に発行された『仙台藩史』(東北振興会編)にわずかに載せられているぐらいである。

 「灌漑用水にもつかいますか」

 と、運転手さんにきいてみた。運転手さんはこの運河のほとりの岩沼で育った人だから、そのことばは信じうる。それによると、海水がすこしまじるために田畑にはつかえない、ということだった。純粋の運搬用運河としてこれほど長大なものを政宗は掘り、沃土の果実を江戸に運んだのである。

「フナはとれます。シジミ、アサリもとれます。」

と、運転手さんはいった。いまはむろん運搬にすらつかわれていない。つまりは無用のものなのだが、宮城県がこれを観光として宣伝することなく、だまって保存につとめていることは、水や土手のうつくしさでよくわかる。仙台藩の後身らしく、武骨で教養のある風儀が、そのことで察せられるのである。

​                 ~以上、『街道をゆく26 嵯峨散歩、仙台・石巻』から該当箇所を原文のまま転載。

<補記>
​司馬遼太郎氏は、貞山堀を今は”無用のもの”と解していたようだが、それは短絡した見方と言わざるを得ない。特に、氏が訪れた堀(木曳堀)についてみれば、現在もこの地一帯における排水機能という重要な役割を担っている。また、東日本大震災による津波襲来時には、減災機能も発揮したとされている。
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