貞山・北上・東名運河事典
ていざん・きたかみ・とうな
8-(2)-c 海岸林
海岸のクロマツ林は元亀~天正年間(1570~1591年)に伊達政宗が青葉城築城および城下を建造するための物質を運搬する目的で阿武隈川と名取川間に運河を開削(木曳堀)し、運河沿いにクロマツを植栽した。後に村落へ落葉、落枝、下草、枯損木の払い下げの便宜を与え、そのかわりに巡視を提供させて保護に当たらせたという。
伊達政宗公が仙台藩をおさめた頃は仙台湾の南部の沿岸地帯は砂浜が現在よりも幅広く連なっていた。このため、飛砂、潮害と高潮がこれより内陸部に生活する人々を苦しめ、また、開拓を困難なものとしていた。慶長5年(1600年)12月、高砂村蒲生に舘をおく和田因幡守は政宗公に命ぜられ、海岸造林に着手した。因幡守はこれを実行するために遠州浜松からクロマツの種子を取り寄せ、翌慶長6年に苗畑を設け、苗木の育成を開始した。
嘉永6年(1853年)に仙台藩の山口顕喜は天保の飢饉(1833~1837年)の要因が海岸林のマツが少ないため、耕地に影響を与えたとして、伐採を戒め、平時には耕地への潮、霧を防ぐとともに、防衛上の必要性もあり、油断なく取り扱うように説いていた。この頃は外国船の来航が頻繁となり、幕府、各藩とも騒がしい状態にあったが、当主の伊達慶邦は海岸林植栽の方針を示していた。
明治の初期には諸制度の大改革がなされ、林政関係でも改革され、藩有林は官林、さらに国有林となって引き継がれ、禁伐林となり、民林も伐木停止の保護林となった。明治30年(1897年)に森林法が制定され、保安林ができ、海岸林は保安林に編入された。県内の潮害防備林はこの期に指定されたものがほとんどである。明治38年(1905年)7月に3回の洪水による田畑などの冠水と6月下旬から9月上旬の天候不良による大凶作で、コメは10aあたり27kgの生産量という最悪の事態であった。その凶作の罹災民を救うため、政府が生業扶助事業を起こし、明治39年から大正3年にかけて海岸林が大規模に造成されている。
昭和7年(1932年)に産業奨励策の一環として「海岸砂防造林奨励事業」が計画され、防潮を含めた砂地造林が3か年計画で実施された。この事業が始まった翌年の3月に三陸大津波が東北地方の太平洋一帯をおそい、甚大な被害をこうむったのであるが、この時、海岸防潮林の効果が多大であることがわかり、青森、岩手、宮城の各県の沿岸地方の防潮林調査がおこなわれた。昭和10年(1935年)に災害防止林造成規則が公布され、全国規模で「災害防止防潮林並に防風林造成事業」が実施、造成が始まった。
昭和24年(1949年)度から計画された治山事業関連の「災害防止林業施設奨励事業」として海岸砂地造林、防風林造成、防潮林造成などがおこなわれた。また、同年に「海岸砂地地帯農業振興臨時措置法」が公布され、海岸の開発と産業振興のため防災林が重要視された。
昭和35年5月のチリ地震津波では特別措置法で津波対策事業として植栽をした。
海岸林のうち国有林に30年生のクロマツの林分が帯状にある。これは昭和42年に老齢林改良のため保安林の指定施業要件の特例にしたがって、帯状皆伐更新がおこなわれたためである。
青森営林局(昭和45年)の施業計画では「潮害防備保安林については、保安機能の維持強化を計るため樹種または林相の改良を要する林分は、昭和52年までに皆伐、新植をおこない、それ以降は択伐して天然更新を行なうか人工補整を積極的に行い確実な成林を期する」と指示している。
宮城県の海岸林の保護については、藩政時代からの造成・維持・管理の必要性を行政と住民が認識し、昭和17年(1942年)に岩沼町に保護組合が結成され、昭和22年までに31の海岸林保護組合が設立され、さらに、翌23年にはこれらの連合組織である宮城県海岸林保護組合連合会が創立され、行政側の海岸林造成事業に寄与している。
上記のように、藩政時代以降、今日に至るまで造成・撫育されたマツ林はおおむね200~600mの幅で沿岸に沿って見事な景観の形成と保安林としての機能を果たしている。このマツ林は汀線から内陸部に向かって樹高が高く、胸高直径も太くなっている。一方、単位面積あたりの個体数は減少する。これらの傾向は植栽後からの経過年数とも関連があり、それぞれのマツ林の生長度合によって群落型も異なっている。
出 典:『仙台湾海浜地域保全計画(学術報告編)』 平成11年3月 宮城県
画像提供:宮城県環境生活部自然保護課