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貞山・北上・東名運河事典
ていざん・きたかみ・とうな
12-(3) 宮本常一が見た貞山堀
日本中をくまなく歩いた民俗学者 宮本常一氏(1907~1981年)は、著作の中で、貞山堀(運河)を次のように紹介しています。
『マツと日本人』 (昭和48年(1973年)1月)から一部転載。
二
松は日本では民衆の発展活動とともに利用され、また普及していった植物であるといっていい。海岸地方に住む者はこれを海岸近くに植えて防砂・防潮・防風に利用した。海浜の松原はそうした人間の努力によって生まれたものであるが、それはひとり日本海岸だけでなく太平洋岸においても同様で、しかも砂浜に松を植えることがどれほど労苦の多いものであったかは、今日なお植林のおこなわれている海浜をおとずれてみるとよくわかる。
そうした事業の中で貞山堀の松などは驚嘆に値するものがある。貞山堀というのは阿武隈川の川口から、海岸にそうて松島湾までの間に掘られた堀で、伊達政宗の企画したものという。
山形県南部地帯から阿武隈川上流へかけての米を江戸に送るために、幕府は川船で下流にはこびその川口に荒浜という港を作り、そこから帆船に積みかえて海上を輸送することにした。しかし荒浜は港としてはけっしてよい港でなかったので、貞山堀を利用して松島湾まで川船で運び、松島湾の寒風沢(さぶさわ)港から江戸へ送ることにした。砂浜に掘った堀は砂にくずれやすい。その砂くずれを防ぐために堤防に松を植えた。いまは堀を利用する船も少なく、堤防の松も伐られたところが多いが、この堀とこの松を見るとき、人間のたくましい努力に深く心をうたれる。
(以下、略。)
出典:宮本常一著作集43 『自然と日本人』
発行:未来社(2003.5.7)
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