12-(1)-④ 鎌田三之助

「田にも畑にも品井沼、馬鹿なキツネがかいこんと泣く」

そうしたあざけりの声もめげず、“村の心の豊作は、住民の心の和を肥料としなければならない”との思いのもとに、対立意見の調整に奮闘し、沼干拓に人生をかけた鎌田三之助翁。

鎌田 三之助 かまた さんのすけ

1863(文久3年)1月13日 ~ 1950年(昭和25年)5月3日

日本の政治家。衆議院議員、宮城県鹿島台村(現在の大崎市)村長。村長就任期間は10期38年に及ぶ。この間、品井沼干拓事業や村財政の建て直しに尽力した。村長在任中、無報酬(旅費を含む)を一貫して通した。維勤維倹を哲学とし、夏も冬も同じツギハギだらけの粗末な衣服、腰に握飯を下げ、わらじ脚絆で村内はもとより、仙台や東京に行くときも、また高貴な方々との面接にもこれで通した。村民から「わらじ村長」と呼ばれ親しまれた。鹿島台町には、鎌田の事跡を記念して鎌田記念ホールが建設され、ホール内には記念展示室が設けられている。

(2) 代議士時代
(3) 代議士当選当時の記念撮影(中央が翁)
(4) メキシコ渡航のころ
(5) 晩年の旅行姿
(6) 広島への講演行脚
(7) 岡山への講演行脚
(8) 岡山での講演に傾聴する会衆
(9) 慈明寺に向かう翁葬送の行列
   列は数町に及び、沿道の各戸は門前に茶や花を供え、香を焚いて翁のひつぎを見送った。
(10) 鎌田三之助夫妻の墓
(11) 大きな石碑の背後にある夫妻の墓石 2010.11.24
(12) 菩提寺: 臨済宗妙心寺派 禅月院 慈明寺  2010.11.24
        住所:宮城県大崎市鹿島台木間塚竹谷坂28
(13) 同じ墓地内にある小野寺謙吾鳳谷先生の墓 2010.11.24

​(14) 道行く人々に慈愛の

     眼差しを注ぐ鹿島台

           小学校校門脇の翁頌徳

           尊像(翁 朝盛作)

”克忠克孝応皇恩 維勤維倹酬祖先”

(克く忠克く孝皇恩に応ず

維(こ)れ勤(きん)維れ倹(けん)祖先に酬(しゅう)す)

翁晩年のころ揮毫を頼まれると好んで書いたという五言絶句。

左の銅像台座の題字「維勤維倹」は、この書からそのまま写し取ったもの。

(15) 鎌田一天翁の真筆
(16) 竹谷の鎌田邸
(17) わらじ村長鎌田三之助生誕の地案内板 2010.11.24

<掲げられている案内板の内容>
鎌田三之助
”わらじ村長”と呼ばれた鎌田三之助は、品井沼排水事業に生涯を捧げた玄光を祖父とし、その遺志を継いだ三治の次男として文久三年竹谷に生まれた。
 明治十一年、十五歳の春、自由民権思想に共鳴して上京明治法律学校に学んだ。
 同十六年帰郷し、三十一歳で県会議員に選ばれ、三十九歳で衆議院議員に当選し二期国政に参与した。
 海外発展を唱えて明治三十九年メキシコに渡ったが、二年後亀井宮城県知事から「シナイヌマモンダイフンジョウ キカノアッセンヲマツ」の帰朝要請をうけ帰国、反対者を説得し同四十三年明治潜穴の通水式を挙げるに至った。
 また、明治四十二年三月、推されて鹿島台村長に就任、以来十期三十八年間、報酬も旅費も断り、粗末な衣服を身につけ、腰に握り飯をさげ、わらじばきで奔走し、品井沼干拓事業を頂点とする郷土の振興に精根を傾けた。
 昭和二年に紫綬褒章を受章、同二十二年公職追放で村長を辞任、同二十五年五月三日八十七歳で逝去された。
 鎌田翁の生家はこの地に木造瓦葺平屋建(一三七平方メートル)があったが、昭和六十一年県道拡張工事のため撤去された。
  平成十一年三月二十七日
  鹿島台町教育委員会
 

(18) 生誕地のすぐ先の鳴瀬川と木間塚大橋(橋の中央部には一対の像が置かれている。)

                作品名「水の面」 鹿野幸子(1933-2005)作 彫刻家、女子美大名誉教授。愛知県出身。

 

 

1863年(文久3年)  1月13日、陸奥国志田郡木間塚村竹谷(現在の宮城県大崎市鹿島台木間塚)に鎌田三治の次男として生まれる。

           生家の鎌田家は、仙台藩士の流れを汲む家で、小作米が900石も入るという大地主の家柄であった。鎌田家は、祖父

           の鎌田玄光の代から品井沼の干拓に力を注いできており、父の三治の活動を見て育った。

1878年(明治11年) 15歳   幾足かの草鞋(わらじ)を携え、13日かけて東京に出る。赤坂にあった須田仲(静寛院宮御附の儒者)の漢

           学館に入る。次いで、未来の陸軍大将を夢見て駿河台の浩然洞(塾主は三浦観樹将軍の叔父服部有徳)という士官学

           校の予備校的な塾に学ぶ。しかし、士官学校には合格できなかった。そこで軍人の次に憧れであった政治家になるこ

           とを志し、当時麹町にあった明治法律専門学校(現在の明治大学法学部)に入学。

1883年(明治16年) 21歳  明治法律専門学校を卒業。その後、郷里に戻り、父を助け品井沼の干拓に取り組む。

1884年(明治17年) 22歳   天然痘が流行したのを憂慮し、痘苗を購入し、一切の費用を自弁して村民に接種させる。

1885年(明治18年) 23歳  木間塚に青年教育の場として大成館を設立し夜学で教える。

1886年(明治19年) 24歳  村に開業医がいないことを憂えて、栃木県人の大越寿草を木間塚に招き、薬品、医療器具一切を与えて開業さ

                                            せ、その費用の総てを自分で負担した。

1889年(明治22年) 27歳  新村鹿島台の村会に土木勧業委員として当選。

1894年(明治27年) 31歳  志田郡会議員に、次いで宮城県議会議員に立候補し、最年少で当選。

1902年(明治35年) 39歳  第7回衆議院議員総選挙に立候補し当選、2期務める。

1904年(明治37年) 42歳  総選挙で落選。

1906年(明治39年) 44歳  移民事業を起こし、11月10日同士の村民24名を伴い東洋汽船の満州丸で横浜を出港し、メキシコに渡る(出

                                              港53日目の12月17日にメキシコマンサニョ港に到着)。品井沼排水工事をめぐり工事推進派と中止派に住民を二分

                                             する対立が起き、宮城県知事亀井英三郎から、事態収拾のための帰国を求める電報を受け取る。田畑約6ヘクタール

                                              を木間塚部落に無償で寄付。

1907年(明治40年)  鹿島台村長選により武田親長が村長に就任(1年4カ月辞任)

1908年(明治41年) 45歳  10月13日午後3時40分、東宮殿下(後の大正天皇)台覧。 (三之助が奔走し実現) 

                                          場所:新潜穴下流の東北本線上。

                   

1909年(明治42年) 46歳  村人の強い要請に答え、村長選に立ち、就任。まず村民の意識を改め協力を求めることが必要と考え、就任翌

                                              日の3月14日に、毎戸から一人ひとり集めて、村建て直しの決意と構想を披露する。

1910年(明治43年) 48歳  「借りがある思えば肩身が狭かろう。それでは真の一致協力ができまい。」と考え、鎌田家からの借りのある

                                              村民を集め、借用証文すべてを与えている。『明治42年事務報告(注1)』を公表。

                     12月26日松島町幡谷字中谷地地内の松葉山で、明治潜穴通水式が挙行。その感激を漢詩(注2)に託す。  

                魚鼈蚊龍何処辺     蒼波萬傾尽稲田   

                                               若教世道如人意                 豈費経綸三百年

1946年(昭和21年) 83歳  公職追放(注3)となり、村長を辞任。

1950年(昭和25年) 88歳   5月3日死去。葬送の列は延々と数丁に及び、沿道の各戸は門前に茶や花を供え、香を焚いて見送った。

 

注1) 明治42年事務報告 ⇒ 別紙参照

注2) 鎌田三之助の漢詩

         魚鼈蚊龍何処辺(ぎょべつこうりゅういずこのへん)

         蒼波萬傾尽稲田(そうはばんけいことごとくいなだとなる)

         若教世道如人意(もしおしえせいどうじんいのごとくんば)

         豈費経綸三百年(あにけいりんさんびゃくねんをついやさん)

                                              ~訳~

                 魚やスッポンや伝説の蚊龍は品井沼のどこに見られるだろうか

                 今や見渡す限り青い波打つ稲田となる

                 もし世の中の事柄が人の意のままになるのならば

                 どうして三百年の苦心を費やすことがあろうか

注3)  公職追放 ⇒ 公共性のある職務に特定の人物が従事するのを禁止すること。日本では、戦後の民主化政策の一つとして、1946年

                                                1月GHQの覚書に基づき、議員・公務員その他政界・財界・言論界の指導的地位から軍国主義者・国家主義者な

                                                どを約20万人追放。52年4月対日講和条約発効とともに廃止、消滅。 (出典:広辞苑)

​【鎌田三之助翁関係年譜】

(出典)
『鹿島台町史』  鹿島台町史編さん委員会(鹿島台町)
『鎌田三之助翁伝』  故鎌田三之助翁頌徳会編   (注)画像(1)~(16)は、平成25年1月発行の口語文復刻版から転載。ただし、(11)~(14)を除く。
 

『宮城県の百年』   宮城県企画部

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