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1-(2) 御舟入堀と御舟曳堀   

御舟入堀は、塩釜湾口の牛生(ぎゅう)(現・塩竈市)と七北田川河口の蒲生(現・仙台市)とを結ぶ全長約7キロメートルの運河である。

この運河開削の構想は、御舟入堀と七北田川の舟運で古くからの湊(港)である塩釜と仙台城下町を結び、塩釜湊に送られてくる米などの重い荷物を水運で城下近くまで輸送しようとするものであった。

 

(1) 塩釜湊

    北上川を下ってきた南部藩や仙台藩の物資は河口のある石巻を

   経て、また鳴瀬川等からの物資も塩釜湊に揚げられた。しかし、仙

   台城下への物資輸送が大量化、重量化するにつれて、湊後背地の勾

   配のある路が難点となっていった。

 

(2) 七北田川の付け替え

    慶長年間以前の七北田川は、岩切(現仙台市宮城野区岩切)を過ぎたあたりから流れを東に変えて、多賀城(現多賀城市)で

   砂押川と合流し、湊浜(現七ヶ浜町)から太平洋に注いでいたとされている(異説あり)。この湊浜は、古代の日本武尊(やまと

   たけるのみこと)の東征談にある「竹(たけの)水門(みなと)」ともされ、また時代を下っては国府多賀城の南の玄関口の河口港とし

   て栄え、舟は河道を遡上して多賀城への物資などの輸送が行われたと伝えられている。また湊浜から岩切まで舟運があったとも

   言われている。

    慶長年中には、下流の八幡、大代、湊浜等の水害防除のために、七北田川の主流の水を蒲生に落とす放水路工事が実施され

   た。この計画にも川村孫兵衛が参画したという説があるが、実際の工事は、蒲生村御仮屋守並びに肝入役だった小野源蔵が政宗

   公の命を受けて行ったという資料が残されている(『安永風土記』のなかの『蒲生村代数有之御百姓書出(がもうむらだいすうこ

   れあるおんひゃくしょうかきだし)』)。また、安永風土記には、湊浜から海に注いでいた市川(砂押川)はかつて舟航可能

   だったが、寛文10年(1670年)に岩切川(七北田川)が蒲生に流れるようになってからは以前の川筋が沼や田になったと記され

   ている。

 

(3) 大代運河の開削

    蒲生への放水路開削後はしだいに平時でも放水路側への流量が増して、七北田川の本川筋の流量不足から掃流力を失い、河床

   の上昇を招き、また湊浜河口の漂砂による閉塞などが出てきたことから、岩切~湊浜の砂押河道の舟運にも支障をきたすように

   なったと考えられる。この代替策として、舟入堀の開削が計画されたのだろう。舟入堀は、何回かに渡って掘り継がれている。

    初めに、塩釜の牛生から多賀城の大代までその長さ約1.8㎞、幅約7間の堀が、仙台藩二代藩主忠宗公の万治元年(1658

   年)までに、藩士佐々木只大夫によって開削されたと伝えられている。

    これにより、舟は花渕崎を廻らず、松島湾・塩釜湾から直接牛生~大代~岩切の砂押河道を通行できるようになった。佐々木

   只大夫は、引き続き万治2年から4年にかけて大代から蒲生に向けての開削にも取り組んだ。しかし、こちらの堀は、高砂神社を

   修復して工事の成功を祈願するも“掘っては埋まる”の繰り返しで舟が通行できるまでには至らなかったようだ。

    一方、先の砂押河道も次第に浅くなり、舟航に支障をきたすようになっていった。

 

(4) 御舟入堀の開削

    この御舟入堀の開削にあたって、藩の財政を預かる収入司の職にあった和田織部房長と工事担当者とされる佐々木伊兵衛(川

   村孫兵衛の三女の聟(むこ))が、工事の無事安隠と完成を鹽竈神社に祈願している。 

    和田織部房長の願文には、安全な工事は鹽釜神社の御加護によるもので、これに報いるために工事が完了したときには石灯篭

   二基を献上すると記されている。和田織部房長が奉納した石灯篭は鹽釜神社境内に現存し、奉納の日は「寛文拾三年三月吉祥

   日」となっている。

    一方、佐々木伊兵衛の願文には、「同年(寛文10)八月十七日」に着工と記されている。 

    この二つの願文によれば御舟入堀は1670年(寛文10)に着工し、1673年(寛文13=延宝元)に竣工したことになる。

▲和田織部房長が献上した灯篭(鹽竈神社)

和田織部房長の願文

 

稽首敬白

塩釜大明神曰願吾君羽林少将兼陸奥守藤原朝臣綱基克仁克寛君此大邦、子々孫々長保社稷、宰臣賢良吏士忠義、庶民安寧国家隆盛是臣之常祈所也、臣以不肖之才幸継祖考之家、官位国相食緑三ヶ村、重荷君恩常恐素餐之責、故戦々競々平生懐報国之志、爰仙台国郡其幅員数十里、其士民数万家而曽運漕之便、士民困運輸、昔吾先君政宗卿以来有欲令疎さく溝洫便運漕之志、末成士民憾之、故臣興大願欲成此事謀士大夫咸以為可也、故謹告吾君云云、君請台命而命臣以溝洫之事、自仙台城下至東海已三十里、其間有山有川有斥鹵、雖庶民子来成功也定有人力所不及歟、是故竭丹誠願憑明神威力其巧不日成、諸吏役夫無恙永利民用国富豊万々年是無疆、所願成就即為報賽謹献石燈籠二基、且終臣之躬毎歳春正月夏五月秋九月或躬親神官、或使人摂詣神宮永謝明神威徳、再拝稽首々々敬白

  干時寛文十庚戌年七月吉辰 

佐々木伊兵衛の願文

 

神力を頼て国家万吉自在之舟入普請成就之誓願也、抑塩釜大明神宮昔年為両神水は為天と不登といふ事なく為地と不至所なし、故に水を用る時に至ては明神之可奉頼通力自在事、於此所に如相生之御舟入には最初より為大守公之求神助をなふしうの験有て上一人より下万民に至迄其物調ふ吉事有、御鍬初之後宮城之郡百姓等一同に心を合此舟入を掘る、是神明之通にして非行及人力、続而人民力を合、舟入成就無疑、爰に神明通力を以祈所は曲而悪所を除き直にして善所を可通所也、不○人心之所にして神徳之加護有、適君臣と生れ禄微少たりといへども我に上たる人、大守公之領内に其数少にして為下人は数多し、是君恩之至也、義之重を以我命之鵞毛より軽きを捨る事はやすく、事を調はかたし、神は非礼を請不給、予為身也は早く身命を失い給へ、大守公並に領郡之人民之通力を尽すは寿命長遠にして、舟入成就之願久年、為愚身之不求神助然所に、大守綱基公之城下万福自在諸人こんきうをすくはんために和田織部房長寛文四年三月上旬仙台舟人見立のため発足の刻愚育之我も鶴ケ浦に至り舟之通用をもとむ粗四ケ年を経而同十年四月上旬此旨征夷大将軍正二位源之左大臣家綱公之達所上聞、綱基公領郡為人民の伺其旨を和田織部、上意告愚私に同八月十七日御掘初有り、当此時、大守公之立先吉かんかみるに綱基公両郡之境を諍節奉願神通力ことを令愚案処に、東方瑠璃光如来は法之薬を以差別之病を全治し給ふ為御誓願文間、大守公之利を失ふ時には我命に替而勝利を令見給へ元来万善之於為防利は法立薬を以早く差別之病分つ神霊の徳を祈奉る所にあやまたす、ふさかる物通し誠成もの立是為神徳非所人力為忠重命を軽く失ふは賤の臣之道也、誠を以神霊之加護有り吉祥如意の例々令満給へ、殊に諸役人衆諸職人衆人足等に至迄心一同に合七難を払而悦之神護を奉祈、舟入立見之誤を神護の助に預らんと非奉祈、難成就於為普請は、大守公之金銀費さる其先にも予命を給へ、是祈所也、元来舟入成就無疑所に諸入之難儀とをうしなふにおいては人再可問而身を害し明神之奉神徳を失外無他事、夫れ、塩釜大明神宮は奥州之為鎮守、就中当大守綱基公之為鎮守、速に国家人民きんきゆうをすくはん事神の為、徳者此堀成就無疑、為大守公之二度我命を軽くして義の重きを以て請願成就は神徳之新成事を首度之礼拝に奏し大守公万才楽之奉幣を捧げ喜悦之眉をひらくべし 敬白

     寛文十年九月吉日

                               願主佐々木伊兵衛

         塩釜大明神宮御宝殿

   奉 納 

 前述「(3)大代運河の開削」のとおり藩士佐々木只大夫によって手掛けられた大代~蒲生間約7㎞の運河は、こうして和田織部と佐々木伊兵衛のもとで出来上がった。この運河は、その当時、七北田川の洪水の逆流を防ぐ水門技術が発達していなかったため、七北田川とは直結していない。運河終点の蒲生には舟溜まりと御蔵が整備され、七北田川との連絡水路(高瀬堀)が設けられた。

(5) 御舟曳堀の開削

    寛文10~13年の御舟入堀の改良・開削や七北田川の砂押河道口の締切、

   蒲生~鶴巻間の浚渫とともに、鶴巻から原町街道の南沿いに苦竹新田の舟溜り

   に至る堀(御舟曳堀)の開削も行われた。その長さ4.5km、堀幅4~6

   間、深さ4~5尺の運河だった。運河の名称は、荷を乗せた舟を堀の両側から

   人力で引いて運行したことに由来すると考えられる。普段は水の無い空堀で、

   必要な時だけ付近の堀などから水を引いたと言われている。

    藩領北部の諸河川を川船に乗せられ運ばれてきた米などの荷は、御舟入堀を

   通って蒲生御蔵に集められ、そこから高瀬舟に積み替えられて七北田川を鶴巻

   までさかのぼり、さらに御舟曳堀を使い苦竹に置かれた藩の蔵場へと搬送され

   ていた。七北田川と御舟曳堀も直結していなかったので、鶴巻には荷を積み替

   えする舟溜と荷の一時保管蔵が、七北田川と御舟曳堀側の双方に設けられてい

   た。

​【慶長期以前】
【大代運河の開削(~万治元年(1658年)】
【御舟入堀・御舟曳堀の開削(寛文年間)】

<補記1>

『仙台市史通史編3 近世Ⅰ』では、出羽国庄内藩資料『川上記(かわかみき)』によるとして、堀の普請に当たって、次のような興味深い話を紹介している。

・ 仙台御軍(郡)内の人足を使わないで、他国から日雇いを雇うこととし、

・ 鶴岡城下三日町(山形県鶴岡市)の最上屋仁右衛門(もがみやにえもん)所へ仙台から日雇いの二人がやって来て、

・ 200人程はまず庄内から雇いいれたい、という申し出をした。

<補記2>

  和田織部館跡発掘調査の概要:仙台市文化財調査報告書第440集『文化財年報36 平成26年度』(平成27年9月  仙台市教育委員会)から

                抜粋転載。※資料提供:仙台市教育委員会文化財課

 

 

<補記3>

平成23年(2011)の東日本大震災では,貞山堀を含む沿岸部は大きな被害を受け,各種の復興事業が行われた。平成27年の復興土地区画整理事業に伴い,船溜りと御蔵跡を対象とした試掘確認調査が行われ,船溜りに関連する護岸施設の一部が確認された。御蔵跡の調査では,土坑から数十点の荷札木簡が出土し,埋蔵文化財包蔵地「蒲生御蔵跡」として新規登録された。

                                        (仙台市教育委員会HPから原文転載)

仙台市 貞山堀発掘調査 遺跡見学会資料『いま甦る、貞山堀の護岸石積み!』 (資料提供:仙台市教育委員会文化財課)

                                   ⇒ 表(PDF)  裏(PDF)

(参考文献)

・ 『多賀城町誌』             多賀城町誌編纂委員会(昭和42年10月10日発行)

・ 『仙台市史通史編3 近世Ⅰ』    仙台市史編さん委員会(平成13年9月1日)

・ 『貞山・北上運河沿革考』       遠藤剛人

・ 『もう一つの潮騒―仙台湾・みなとのすべて―(前編)』   佐藤昭典

▲御舟入堀:大代緩衝緑地公園/手前は砂押川  2007年7月撮影   ※写真提供:宮城県土木部
▲御舟入堀:大代付近上流部 2006年7月撮影